松村秀明(|5期生 法学部政治学科)

文化祭で経験した学生指揮者をきっかけに、指揮者の道へ

取材・文 / 木崎ミドリ
写真 / Y.Petit

松村秀明さんの軌跡

2003年慶應義塾大学法学部政治学科卒業
2004年洗足学園音楽大学附属指揮研究所 マスターコース修了
2007年プロオーケストラでの指揮の仕事をスタート
2010年第11回アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで第3位入賞
2012年洗足学園音楽大学非常勤講師
2015年音楽事務所に所属

私は現在、指揮者として国内のプロオーケストラの客演を中心に、全国各地で演奏活動を行っています。また、音楽大学で講師も担当しています。

SFC中高卒業後は、法学部へ進みました。そして、大学2年からダブルスクールとして洗足学園音楽大学附属指揮研究所へ通い始めました。高校3年生の時にはすでに将来は指揮者の仕事に就きたいという気持ちは固まっていたのですが、中学から親に慶應に通わせてもらっていた中で、慶應大学に進まないという決断をすることには自分の中でも迷いがありました。

進学については、当時僕が所属していた吹奏楽部の顧問でもあった櫻井先生に相談しました。「音楽家になりたい」と相談すると「悪いことを言わないから、大学までそのまま行きなさい」とアドバイスをいただきました。「それだと遅くないですか?」と僕が聞くと「いや、もう高3の時点で十分遅いんだから気にするな」と。

さらに「あなたが本当に目指すのだったら、今後いろいろな人からいろいろなことを言われると思います。もちろん、それはちゃんと受け止めていかなくてはいけないけれど、誰に何を言われても、自分の中でこれは変わらないということがないといけない」という意味のことも、言われました。そうアドバイスを受けて自分の中で考えたことは、今でも大きな支えとなっています。

「自分に指揮をやらせてほしい」と小瀬川先生に直訴した

3歳の頃からピアノをはじめ、6歳からはヤマハのジュニア科専門コースという、少しレベルの高いクラスに通っていました。ジュニア科専門コースは少し特殊で、自分で曲を作ることもありました。当時は野球の方が好きだったという感じでしたが、小6のピアノレッスンで、音楽がとても好きになる瞬間があったのを覚えています。

SFC中高では吹奏楽部に入り、クラリネットを担当しました。6年間クラリネットを続けたのですが、高2の時に一度だけ臨時で学生指揮をする経験がありました。その後すごく生意気だったと思うのですが「自分にやらせてほしい」と、小瀬川先生に直訴しに行きました。結果、正式に学生指揮者を担当させてもらえることになったのです。

高3になると、SFCでは自分で1つのテーマを決めて1年間かけて研究して論文にまとめる自由研究の課題がありますよね。僕は指揮者をテーマに研究しました。4月から研究を始めて知見も深まっていく中で、吹奏楽部では次の11月の文化祭に向けて練習が進んでいきます。

2日間ある文化祭のステージでは2日間とも同じ曲を披露したのですが、初日にうまくいかなかったところに注意して翌日指揮をしたら、演奏が変わったのです。

逆に気を抜いてしまった部分は初日よりうまくいかなかったりして。もちろん、僕だけの力ではないのですが、指揮の仕方で60人が影響を受けるというのがすごく面白いと、ぞくぞくしたのを覚えています。

僕にとっては間違いなく、この2日間がプロ指揮者の道へ進む原点です。きっかけをくれた小瀬川先生、そして自由研究に伴走し、進学についても冷静なアドバイスをしてくれた櫻井先生にはとても感謝しています。

オーディションをきっかけに、チョン・ミョンフンに認められて

悩んだ結果、慶應義塾大学の法学部に進み、大学2年時から洗足学園音楽大学附属の指揮研究所へ所属し、ダブルスクールを始めました。

2004年9月にマスターコースを修了したのですが、その後は暗黒の時代でした。最初は全然仕事がなかったからです。

いくつかアマチュアオーケストラの指揮をさせてもらって経験を積むうちに、2007年に東京フィルハーモニー交響楽団(以下、東京フィル)の副指揮者のオーディションが大きな転機になりました。副指揮者にはなれなかったのですが、当時オーケストラの指揮者だったチョン・ミョンフンさんが認めてくださって、東京フィルで指揮をする仕事をいただけるようになりました。

プロのオーケストラと仕事をするという大きなハードルを越える機会をいただけたことで、「東京フィルで仕事をしているのだったら、うちでも」という形で、他のオーケストラの仕事が少しずつ入りはじめました。

また、2010年の10月に第11回アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで3位をいただくことができ、そこからまたさらに仕事が増えていきました。そのような形で今は、国内のさまざまなオーケストラにお声がけをいただいて、公演に向き合ってという日々を送れるようになりました。

2012年からはもうひとつの母校である洗足学園音楽大学でも、非常勤講師をはじめました。ちなみに、今年の秋から洗足学園音楽大学の学長が同級生だった前田雄二郎くんになって。僕は1年B組38番だったんですけれど、彼は37番で。同じマ行で前後だったんです。今、仕事で直接何かあるというわけではありませんが、不思議な縁ですよね。

個性的な先生が多いSFC、意外な影響を与えてくれることも

今から振り返ると、SFCには本当に個性豊かな先生たちがそろっていたなと感じます。音楽の櫻井先生はオペラ歌手の経歴をお持ちだし、土器の発掘に意欲的だった社会の塚原先生や、映画が大好きだった国語の相川先生。僕の同級生で映画監督になった人もいますが、彼は相川先生の授業で映像を撮るということを経験して、目覚めたと言っていました。

僕が音楽以外で影響を受けたのは、国語の金成先生の宮沢賢治さんに関する授業です。授業中に「賢治さんがね」と、先生がとにかく好きそうに話すんですよ。正直、その時は全く響いていなかったんですが音楽に向き合う日々の中である時、宮沢賢治さんの本を読んでいたとき、金成先生の言っていたことが、「わーっ」と思い出されたことがあるんです。

抗うことのできない大きな力ってありますよね。宮沢賢治さんの場合は、それが自然という大きな力。自然の前での人間の無力感、自分の力ではどうにもならないことがあるのがわかっているんですね。今、一番好きな作家のひとりになっていて、修学旅行で行った花巻にまた一人で訪れたこともあります。

先生たちがそれぞれ自分の興味のあるものにまっすぐで、そこからにじみ出るパワーみたいなものに、僕たちは知らず知らずのうちに影響を受けているのかもしれません。繰り返しますが、中学生の時には本当になんとも思っていなかったし、むしろ斜めに見ていたような気すらします。なので、学校が与えてくれる機会は、食わず嫌いしないで、いったん受け止めてみるのがいい。

授業や部活、文化祭などでのふとした何かが、将来につながるきっかけを生んでくれるかもしれないからです。それは後になってみないとわからないけれど、SFC生活の中のあちこちに、そのかけらは落ちているのだと思います。

在校生へのメッセージ

音楽家の人たちはもっと早くから専門教育を受けて、自分で考える前にその道がある程度できている場合が多いです。僕の場合は、スタートがだいぶ遅かった。でも、最初からずっと音楽家を目指していたら、逆に途中で法律の世界へ行っていたりしたかもしれない。強制感がなかったことはよかったな、と思っています。今、学部選びで悩んでいる方がいたとしたら、自分で選んで覚悟を持てば、今から何かのプロを目指すことは十分可能だと伝えたいです。