飯田美穂(旧姓:石井)(産婦人科医・公衆衛生研究|2002年卒)

女性のヘルスケア向上を目指す原点はSFC

取材・文/中城邦子
写真/林 直幸

飯田美穂さんの軌跡

2008年慶應義塾大学医学部卒業
2008年亀田総合病院で初期研修
2010年慶應義塾大学医学部産婦人科学教室に入局 関東圏内の総合病院で研修
2013年産婦人科専門医取得
2017年慶應義塾大学医学研究科博士課程修了 博士号取得
社会医学系専門医、女性ヘルスケア専門医取得
2018年慶應義塾大学医学部 衛生学公衆衛生学教室 助教
2021年慶應義塾大学医学部 衛生学公衆衛生学教室 専任講師

調査研究を通して女性の健康課題に向き合う

私は現在、大学の公衆衛生学教室で女性の健康に関する研究や教育に取り組みながら、産婦人科医として診療、そして企業の産業医として働く人々の健康管理にも携わっています。

公衆衛生の道に進んだのは、産婦人科医として診療をする中で、女性が自分らしく活躍することを応援するためには、病院の中だけでなく社会全体で支援に取り組んでいく必要があると感じたことが理由です。

会社で行われる健康診断一つをとっても、その診断項目は当時労働者の大半であった男性の基準で作られたままです。今では働く女性が労働力人口の45%ほどを占めているにもかかわらず、女性の健康を支援する上では項目が不十分です。労働安全衛生法が制定された当時には女性の労働者が想定されていなかったのでしょう。現行の法令でも、女性の健康課題への対応について支援がまだ不足していると考えています。

例えば月経時につらい症状があるのにもかかわらず、医療機関での診察を受けている女性はわずか6%というデータがあります。痛みで苦しい思いをして、仕事のパフォーマンスが上がらない状態に耐えている人がたくさんいます。

女性同士の会話では「つらいよね、わかる」と共感が得られても、それだけでは社会課題の解決に繋がりません。法律や社会全体を変えていくためにはデータが必要です。

そこで取り組んでいるのが、大規模な調査です。慶應義塾大学が主導で行っている地域住民や働く人々を対象としたいくつかの調査研究で、私は主に女性の健康の部分を担当しています。

今の生活習慣や環境が、その後の健康状態との関連を調べる調査で、長いものでは10年以上同じ方々に協力を続けていただいている調査もあります。皆さんが当たり前のように受けている健康診断や日頃から気を付けている生活習慣は、こうした調査から得られたデータを蓄積し、科学的に検証した成果が反映されています。

何らかの症状が出た人だけを遡って調査することは比較的簡単で、当時のCOVID-19のような未知の病気には有用ですが、より正しい予防法や早期発見の手段を見出すには、病気になる前の先入観のない状態から、できるだけ多くの方々に継続してデータを提供してもらうことが重要です(症状が出てから振り返ると、ある事柄を強く思い出してしまったりする「思い出しバイアス」が起きてしまいます)。

産婦人科にまつわる女性特有の健康課題については、こうした長い年月をかけて追跡したデータが特に不足しています。ライフワークとして、今後も継続的に取り組んでいきたいです。

医師を意識するきっかけとなった体育の授業

公衆衛生に興味をもったのは、私自身の高校生のときの体験がきっかけです。3年間のアメリカ生活から帰国して、日本での高校生活が始まったばかりのころ、ストレスがあったせいか不正出血が続き、夏の間ずっとプールの授業を受けられなかったのです。

体育の岩崎友子先生に理由を話したところ、「ええ~!早く病院へ行きなさい~!」と促されました。親にも言いにくいことを先生には言える。そんな家族のような率直で温かい空気は、SFC中高ならではの校風ですよね。

親がびっくりして、いきなり大学病院へ連れて行かれたのですが、心細い上に、多感な時期のこと。生理不順くらいで来てもよかったのかと不安になり、大学病院の雰囲気に気圧され、女性の先生が診療にいらっしゃるとようやく少し安心したことを覚えています。このときの経験が医師を職業として意識するきっかけになりました。女性を応援する仕事に就きたいという思いから産婦人科医を目指すことにしました。

医学部を目指した頃の記録

得意なことに気づかせてくれた高校の課題

大学では講義をしますし、当事者や家族、職場の上司や同僚に向けた講演活動も行っています。人前に出て話す活動が自分にできることに気づかせてくれたのは、倫理の授業で金杉明子先生から出された「自分を表現する」という課題でした。

3年ごとに父の転勤で引っ越していた私にとって、ピアノに没頭することがストレス発散方法でした。楽譜がなくても音を聞き取れたので、好きな曲を「耳コピ」しては、ピアノを弾きながら歌っていたのです。

倫理の課題で、ピアノの弾き語りをすると、思いもよらないほどみんなが感動してくれて、そうか、耳コピして演奏しながら歌うって特別なことなのかなと初めて気づいたのです。それまでは転校しては環境に慣れ、去っていく人生だったのですが、大きな自信になりました。

その後は七夕祭で、同級生とアカペラで歌って演奏したのもよい思い出です。そして、医学部時代や研修先の病院でも機会を作って、患者さんに向けてミニコンサートを開くこともありました。

亀田総合病院勤務時に行ったコンサートのチラシ

模擬国連の経験が国連英検特Aチャレンジに

振り返るとSFC中高でのさまざまな経験が、今の私に繋がっているのだと感じます。模擬国連もその一つ。高校3年生が行うもので、その年のテーマに沿って世界の国の状況を調べ、担当した国の代表となって、議題について英語で議論をします。

ここでミスMUNに選ばれた経験が、その後も英語や国際関係への意識を高く持つことに繋がっています。医学部に入ってから国連英検の特A級を取り、おかげで国際医学生連盟の副代表を務め、国際学会の司会を任されることにもつながりました。

模擬国連の表彰状

部活動はテニス部で、主務を務めました。最後の冬に団体戦優勝したときは、人生で初めてうれし泣きを経験しました。「みんなで目標に向かって頑張る」という経験は今も生きています。大規模調査で行政など多様なバックグラウンドの人と一緒にチームで行う際、それぞれの立場での課題や共通の問題を認め合う姿勢は、テニス部で育んだと感じています。

医学部進学を目指すと決めてからも、テニス部の活動を優先するために塾などには行きませんでした。勉強する時間は限られているのだから、せめて授業中にわからないことはすぐに先生に質問して解決し復習することだけは心がけていました。

先日も大学のSFCキャンパスで講義をする機会があり、久しぶりに高校を訪れたところ、テニス部時代の顧問、河村美陽先生にばったりお会いしてひとしきり盛り上がりました。今でも学校に行くと、当時の自分に戻れるんです。

実は私は高校時代の書類や思い出の記録をずっとファイリングしていて、今回のインタビューで見返しました。どれも私にとっては宝物であり、改めて自分の原点に立ち戻れて、背筋が伸びる思いがします。

1929年に米ロックフェラー財団からの寄付金でつくられた、築およそ100年の歴史的建造物のなかに、公衆衛生学教室がある

在校生へのメッセージ:

何か夢中になれることに一生懸命になってほしいですね、目の前のことを一生懸命やっていると、そのときは点に思えていたものが、線に繋がっていることを、自分自身を振り返って見て思うので。悩んだり躓いたりあると思いますが、情熱を注げることをぜひ継続してほしいと思います。
高校時代に打ち込んだテニス部の活動の記録